ある日、ふとテレビで見かけたドキュメンタリー番組の中で、重い過去を抱えた人が更生していく様子が紹介されていた。その人物は過去に非行や犯罪を重ねていたが、ある宗教家との出会いをきっかけに人生をやり直したという。
人は変われるのか?いや、変わることができるからこそ人間なのだ。そんなことを思っていたら、ふと頭に浮かんできた四字熟語があった。「悪人正機(あくにんしょうき)」——私は以前この言葉をどこかで目にして、その意味の深さに心を打たれたことを思い出した。
世の中には、良い人が報われず、悪いことをした人が救われるように見える場面がある。そんな矛盾のように思える現象に、この言葉はひとつの答えを提示してくれる。今回は、そんな「悪人正機」について、私なりに感じたことを綴っていこうと思う。
悪人正機の意味とは?
まず、「悪人正機」という言葉の成り立ちを確認してみよう。「悪人」はそのまま、“悪いことをしている人、または心がけの悪い人”を意味する。「正機」は、“正しい縁(きっかけ)”や“まさに救われるべき対象”という意味を持つ。
この四字熟語は、浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)聖人の教えに由来している。親鸞は、「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という逆説的な考え方を説いた。「善人ですら極楽に行けるのだから、悪人が救われないはずがない」という意味だ。
一見すると、悪人のほうが善人よりも得をしているように感じるかもしれない。しかし、親鸞の意図はむしろ逆で、「自分は善人だと思いあがっている人間は、救いを求めない。
けれども、自分が悪人だと自覚している者こそ、仏の救いにすがろうとする。その姿勢こそが“正機”なのだ」と説いたのだ。
つまり「悪人正機」は、「自分の罪深さを正直に見つめられる人ほど、本当の救いに出会える」という深い人間観に根ざした言葉なのだ。
悪人正機の使い方とは?
とはいえ、この「悪人正機」という言葉、日常会話でそのまま使うことはなかなかないかもしれない。ただし、比喩的な表現や人生観を語る際には、意外と役立つ言葉でもある。
たとえば、誰かが過去の失敗や過ちについて打ち明けてくれたとき、「あなたのように、自分の弱さを知っている人こそ、悪人正機という言葉の意味がわかる人なのかもしれないね」といった使い方ができる。
あるいは、社会的に非難された人物が更生し、立派な活動をしているニュースを見て、「まさに悪人正機の実例だな」とつぶやいてみるのもいいかもしれない。
ただし、「悪人正機」という言葉を軽々しく使うと、相手に「悪人扱いされた」と思われる危険もあるので、使う相手やタイミングには注意が必要だ。自分の過去に対して向き合う文脈や、深い話の中でこそ生きる言葉なのかもしれない。
悪人正機をわかりやすく解説
私なりにこの言葉をもっと身近な感覚でたとえてみたい。たとえば、学校のテストでいつも満点を取る優等生がいたとする。その子は「勉強なんて簡単」と思っている。一方、毎回赤点ギリギリの生徒は、「どうにかしてこのままじゃダメだ、もっと頑張らなきゃ」と真剣に考える。
この場合、変わる力を持っているのはどちらか? おそらく、後者の生徒のほうだろう。自分の至らなさに気づき、そこから努力する人間には、強い成長のエネルギーがある。それは勉強に限らず、人生すべてに通じることだと思う。
親鸞の時代にも、仏教という教えを学びながらも「私は修行が足りない」「煩悩まみれの自分が救われるわけがない」と嘆く人がたくさんいた。
だが、そういう人にこそ「そのままでいい、あなたこそ阿弥陀仏の救いにふさわしい」という希望のメッセージを送ったのが、「悪人正機」という教えだった。
だからこの言葉には、ただの逆説や皮肉ではなく、「どんなに過去があっても、人は変われる」という強い人間肯定の思想が込められている。人を見下すのではなく、人を見つめるまなざしのやさしさが、そこにはある。
最後に
「悪人正機」という言葉に出会ってから、私は自分の中の弱さや後悔に対して、少しだけやさしくなれたように思う。失敗や過ちをしても、それが“終わり”ではなく“始まり”になることだってある。むしろ、そこからこそ何かが始まる。そんなふうに考えられるようになった。
人は誰しも、心の中に“悪”の部分を持っている。それを見ないふりするのではなく、ちゃんと見つめて、それでも自分を認めてあげること。それが、本当の意味での「正機」につながるのだと、私は思っている。
だから今日も私は、自分の過去も、失敗も、迷いも、丸ごと抱えて生きていく。それでいいんだと、この言葉が背中を押してくれるから。
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